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海の上のピアニスト

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力を入れすぎないblog  それなりに暮す毎日

2005年 08月 11日 ( 4 )





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逃げ出したのは、今は亡き、友人。
年齢を知らなかった。
50代の男性とでもしておこう。
長野県に住んでいて、仕事の関係で知り合った。

言葉は丁寧で、紳士的で、親切だった人で、
昔は調理師をしていた事があったので、料理は上手。

私を含む何人かに、バーベキューの時には、肉を自分で作ったタレに付けて、
持参してくれたり、すきやきを作ってくれたりしたので、
味付けが上手い事を知ったのだ。

彼は、離婚した後、何年かした時に、きっと若くなりたかったのだろう!
美容整形の手術を受けたのだった。

台湾に一人で行った。
手術台に乗った時に、怖くなって、逃げ出したそうだ。

そして、何ヶ月かして、またチャレンジした。
今度は、逃げられない!と腹をくくった。

顔をかなり手術したので、術後は何日も顔の腫れがひかなくて、
パンパンだったそうだ。

私は、手術後に会ったので、前の顔は知らなかった。
私が会った時には、25歳のタイ人と結婚していて、親子のようだった。

それから、1年後に会った時、仲間の一人が言った。

「OOさんの顔は、しわが随分増えたみたいだ!」
そう言われれば、そんな気もしたが、それが手術のせいなのか、
加齢の為なのかは、解らなかった。

更に、一年後、彼は急死してしまった。

その時に、仲間の一人が写真を見せてくれたのだ。
それは、整形前の自顔。

ごつい顔で、鬼瓦といった感じだが、男だから、別に変ではない。
術後のにやけたヤクザの様な顔よりは、ずうっと自然だった。

この人の最後に、術前の写真に出会うとは、何てドラマティックな事だろうか。

そして、何年かして、彼の甥っ子が仕事でこの町に来た時に、
私の所にも、立ち寄ってくれた。
ハキハキとして、気持ちの良い明るい男性だ。


私は、20代の若い彼に、手術前の友人の顔を重ねたのだった。




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by sea1900 | 2005-08-11 23:13 | 人間



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-経緯-
昭和47年2月2日午後2時15分、グアム島で、漁民に発見され救出された横井庄一元陸軍伍長が、日航臨時便で31年ぶりに日本に帰国した。記者会見で「恥ずかしながら生きて帰ってまいりました」の第一声は当時の流行語となった。また、その二年後ルパング島で、小野田寛郎元陸軍少尉が発見され帰国。戦後の問題は、まだ解決していないことを改めて国民は知った

-二人の終戦-
横井さんは戦争当時、第29師団に配属され食料・弾薬を運搬する部隊にいた。昭和19年、米軍がグアム島に上陸してきた。圧倒的な米軍の兵器の前に日本軍は敗走。戦闘時2万人いた兵力はすでに3000人となり戦闘継続は困難な状況であった。投降を呼びかける米軍に、当時の指揮官である佐藤少佐は、これを受け入れる。不幸であったのは、横井さんの部隊は佐藤少佐の直接の指揮下ではなかったため、投降命令伝達が伝わっていなかった。横井さんは2人の部下と共にジャングルの奥深くで潜んでいた。

帰国を果たした横井さんは、記者会見で「終戦は、米軍が落とした宣伝びらで知っていたこと、もし出て行ったら軍法会議で処刑されることを恐れていた」ことなどを話した。
日本に帰国した横井さんは、31年ぶりの340万7404人目の復員者であった。


8/7に小野田さんの本のご紹介がありましたので、
8・15が近いので、ここに書かせてもらいます。

まず、横井さんがグアムで発見されましたが、横井さんはTVで見ると、
普通のおじさんでした。
その後にルバング島で発見された小野田さんは、
気骨ある軍人のイメージが強くて、中野学校にいた人だと知ると、
尚更だと思われました。

映画「シン・レッド・ライン」で、日本人が出てきます。
この映画は、太平洋戦争で、皆,痩せています。
当時の日本人の兵隊さんが、気骨だけで生きていた事が想像されます。

私の父は、戦争に行った人間でしたので、小野田さんの出現に、
当時、自分の姿を重ねて、戦争体験を思い出していました。

中野学校は、スパイの学校であり、頭脳明晰な人が集められていたようです。
それで、父は、小野田さんは、
普通の人よりも頭がいいのだ!と言っていました。

何年か前に、偶然ラジオで、ゲストの女性が面白い体験を話していました。
偶然にも、小野田さんの奥さんだったのです。

ブラジルに渡った頃の話で、日本よりも不便な生活の事をおっとりと、
話されていました。

戦争中には、日本国内も大変でしたが、
父は、国内の人は一番楽だったのだ!と言っていました。

前に私がこのブログに載せた写真の中に、
パラオの海に浮かぶ小さな岩の島があります。
この島の穴の中に、今も、戦争当時の鉄砲や大砲が置いてあるのです。

ダイバーの中には、海の中(水深1M位の浅い所)に今もあるゼロ戦に、
乗って、遊ぶ人もいます。
ゼロ戦は、思っていたよりも小さいのです。
私は、そんな気持ちにはなれないのですが・・・

小さな無人島には、今も、さび付いた戦車だってあります。


こんな海の中で、水も食べ物もなく、暑さの中で、
お国の為に戦った兵隊さんが不憫でなりませんでした。

グアムや、サイパンの海中にも、戦死者の骨がたくさんあるでしょう。

グアムもルバング島もジャングルの中です。
30年もの間、身を隠して生きる事しか出来なかった人を思うと、
この戦争の犠牲者としか思えません。

父はよく、同じ人間でも、人間が違う!と言っていました。
この言葉は、戦争体験のない人間への言葉で、
戦争を体験して、戦地で苦労した人間の言葉です。

でも、戦争体験者が、高齢になり、亡くなって行くので、
段々と、生の声が聞けなくなってしまいますね。

せめて、本だけでも、たくさん残しておかないと、
戦争体験者が浮かばれないでしょうね。






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by sea1900 | 2005-08-11 15:47 | 人間


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妖怪大戦争のAgi役の栗山千明が良かったので、
夜の9時から作っていた。

後ろに居るのは、すねこすりで、今夜は、Agiと仲良しだ。
98円の紙粘土で、創ったが、
着色したら、失敗になりそうなので、今デビュー!しましょ!!


  本当のAgiは、安らぎの時間が無かったと思う。


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メル友さん、人形創りは大変でしょ!
私は、紙粘土で、精一杯!





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by sea1900 | 2005-08-11 02:09 | 現在

               
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池波正太郎の食べ物に対する随筆を読んで、印象深かった事があった。

例えば、すし屋でのシーン

しょうがをガリと呼ぶ。
脂身をトロと言う。

こういう言葉は、あくまでも寿司職人の使うプロ用語なので、
お客さんは、しょうがや、脂身と言えば良い。

また、いくら脂身が好きだからと言って、そればかり注文するのは、
他の人の事を考えない身勝手な行為という事が印象的だった。

言葉は、今の時代では、すでにごっちゃになっている。
マア、いいだろう!

唯、理屈よりも、私は美味しく食べる人が一番いいと思う。
美味しい!美味しい!という言葉は、何よりだと思っている。

私は、たまに、ボランティアの弁当作りをするが、
それも、おかずでいっぱいの物だ。

若い子達は、ご飯よりもおかず中心なので、
とにかく、色んな種類のおかずを作って、
それを幕の内の弁当箱に押し込めている。

<詰める>なんて生易しい物とは違う。
押し込めなければ、入りきれない程で、
フタをとったら、広がる位なのだ。

最初は、彼らは美味しいとも言わなかったが、
私は、何でも言葉にしないと、相手には伝わらないと、
説明した事があった。

それ以来、美味しかった!と言う感想を頂くようになった。
  (言わしている事は、ないと思う)



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by sea1900 | 2005-08-11 00:21 | 食べる