『砂 男』
『見た』というよりも講義を受けて、その補足としての踊りを『見た』形となった。
講義はローマ大学の学者で、踊りはその奥様に拠るものだが、奥様はきれいな体とは言え、全裸だったし、ここまでの必要があるのだろうかと思われた。
ホフマンの解説でもなんでもなくて、抽象的な話からしいて言えば、『男と女』のエロティックな話にしか聞こえなくなり、その趣旨からは全裸の女性の姿と言う物は反比例して『エロティック』では無くて、ただの『露骨さ』に変化していた。
ローマ大学から手伝いとして10人もの学生が来ていて、彼らがすごくイケメンだったのでどうもそこに『救い』を見てしまったのは、私だけだったのだろうか?
ただし、この血の通わない講義の後で、奇跡のような演出があり、ここだけが光り輝いていた。
『砂男』から『コッペリア』に変化した光のようだ。
ここだけ、血が通っていたのだと思う。
しっかりとした趣旨が表れていたので、納得。
そう思うと、それまでの序章はあまりにも退屈だと、余計に思えてしまった。