『嵐が丘』
今までのこの映画は、キャシー亡き後、キャシーの亡霊にヒースクリフが翻弄されるケースだったが、今回の作品は、原作にかなり忠実でありキャシー亡き後の18年後も描かれている。
前者を幽霊で締めくくった作品とするならば、後者はより現実的だと言える。
18年後、彼らの2代目の話しに及び、ヒースクリフの『愛』から発した『憎しみ』が彼の性格を歪めて、憎む事でキャシーを想っている姿に変化している。
『愛』あれば『憎しみ』が生まれ、それにしがみつきナルシスト街道まっしぐらのヒースクリフを演じるレイフ・ファインズには、狂気を感じる。
元々、ナルシーなのかレイフはとにかく上手い。
そして、気性の激しいキャシーを演じるジュリエット。
美しいだけならば話にならない役だと思う。
コケティッシュな魅力とでも言うのだろうか?
ヨークシャー地方に風を送り込んでいるのは、坂本龍一の曲だ。
木管楽器の緩やかさが哀愁さえ運んでいる。
弦楽器は伸びやかさを奏でているとすれば、木管楽器が要でもあってキュツと絞めている。
見事と言うしかない素晴らしさだ。そして、これが暗い曲ではないから更に良い。
何処となく『東洋』を感じてしまう。
作家エミリー・ブロンテは1818-1848で30歳でこの作品が世の人に受け入れられない内に亡くなっている。
もがき苦しむような辛い作品なのに、悩みぬき何よりも力強い。
この力強さは、ヨークシャー地方の荒涼なる自然と並行して、更に力強くなっている。
今、坂本龍一のUF(映画音楽)を聞いているが、映画そのものが思い出される事よりも、ヨークシャー地方という土地を想像してしまう。
それは『風と共に去りぬ』で、南部の大地が描かれていたように、不動なのは人の心ではなくて大地なのだと語ったようなもの。
最初に大地があって、最後に残るのは大地なのだという風に思える。