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海の上のピアニスト

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「家の鍵」

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イタリア映画の良さは、永い歴史に負けない丁寧さだろうか?

そんな風な感想が出る「家の鍵」を、今朝見た。

15年間も生まれた息子に会わなかった若い父親ジャンニと、出生時に母を失い、伯母夫婦に育てられてきたパオロが初めて会って、ミュンヘンからベルリンの病院まで、そして、今度はノルウエィまでのドライブを通して、お互いの本当の姿をぶつける。

パオロを演じたアンドレア・ロッシ君の姿があまりにも自然だったのは、監督との一年間の暮らしから来たのだと思うが、手首を捻じ曲げて、背骨をくねらせて、まるで、生まれつきの姿のように見える。そして、めがね越しに三白眼で、上目使いをされると、本当に彼は障害を持って生きているのだと思い込んでしまった。

障害者と言うと、やはり健康体の人と比べて、ハンディキャップを持っている事になるが、そう思う事自体、勝手な判断なのかも知れない。

<障害>ではなくて、少し変わっているだけだと思いたい。

パオロの無垢な明るさに何度も救われるが、ノルウエィの道を走っている時に、いう事を聞かずに、クラクションを鳴らすパオロに、父は車を止めて泣いてしまう。
これからの2人の永い道のりを思うと、その道のりが単純な物では無い事に、涙したのだが、
「泣いてはいけない」と父を諭すのもパオロだった。

子供も成長すれば、親も成長するのだ。
決して、停滞しない関係だと思う。

かつて、障害児を授かった知人は、「この子にはこの子のスピードの成長がある。」と語っていた。しかし、その言葉を自然な言葉として吐き出せるまでには、幾度かの挫折を味わったと思える。迷い、悩み、子供の将来を悲観した事だって一度ではすまなかったと思う。

<障害者>は障害を持って生きているのではなくて、少し変わっているだけ、そして成長が少し遅いだけなのだと思う。

シャーロット・ランプリングの優しいまなざしに隠された苦悩は、娘への愛の裏返しだと思う。


ラストの宗教音楽が、「許し」のように聞こえたのは、私だけなのだろうか?
誰にも「許されたい時」があって、「許される時」があるのだと思う。


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by sea1900 | 2006-11-20 22:40 | 映画