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海の上のピアニスト

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『藤田嗣治展』LEONARD FOUJITA

つづき・・・・・


35、ライオンのいる構図1928年作
 展示されている絵の中では、一番大きくて、ライオンの檻の隣には、小さな檻があって、ここにも猫が入っていた。猫がこれからの絵には、どんどん登場して来て、猫がいかに、彼の生活の中ではかけがえのない家族になっているのかが分かる。
白い、スピッツのような犬も、登場してくるようになる。

27歳当時、パリに着たばかりの時に、モディリアーニや、スーチンと出会い、モディリアーニの描く女のように、首が長くて、なで方で、細長いスタイルの女を1918年には、描いているが、その影響は永くは続かずに、彼独自のスタイルを作り出していく。

最初、繊細な線描だったものが、約一年間の南米への旅を経てからの、1932年からの絵は、南米の色彩豊かさを加えて、依然とは比べられない肉感的なものになった。

しかし、何を描いても、細部までよく描かれていて、その細かさや正確さに、驚いてしまう。

1935年には、「画家は大衆の為の奉仕も考えなければならない。」と、デパートや、喫茶店の中の壁画も描いた。例えば、現在では、迎賓館に飾られている、59,60、の、銀座コロン壁画は、柔らかく、きれいな色で、大衆に好まれるような物だった。

太平洋戦争中には、軍の画家として描いたアッツ島玉砕矢、血戦ガダルカナルなどの作品があるが、どれも、詳しく描かれていて、悲惨極まりない。

写真よりも、切羽詰まった緊迫感や、感情を、彼の絵は訴えて止まない。

戦後、画家の戦争責任を問われ、彼は全責任を負う事になり、再び、パリに行く。
その時1949年。1955年には、フランスに帰化する。

羽田空港のタラップを上り、こちらを向く彼の顔は、それまでの険しさが消えて、安堵したように思えた。(写真から)
「一つの事に静かに専念して、ゆっくりかけて、勉強して、仕上げる。
これの出来るのも、パリですね。パリだけですね。」

彼は、自由にゆっくりと絵を描きたかったのだと思う。
この時は、2度目の日本人の妻、君代夫人と一緒だった。

フランスに戻ってから描いたのは、西洋の古典絵画に対する一貫した憧れを、全開しながら、モデルのいない子供の姿を描いている。
72、優美神 1946-48年作 では、ありとあらゆる花が描かれていて、3人の女を包んでいて、平和そのものだ。
74、動物宴 1949年作 では、狐や鳥、猫や犬達が描かれていて、何とも愉快だ。
額には、素朴な木彫りが施されていて、よく見ると、彼のお手製だった。

実は、画集にはない絵がたくさんあり、個人所有の物は、こういう機会でもないと、お目にかかれないのだ。

亡くなる2年前には、集大成として、パリから東に130KMのシャンパーヌ地方のランスに、礼拝堂を作り、デザインは元より、内部は、フレスコ画で飾った。

ノートルダム・ド・ラ・ペ  礼拝堂の名前はそういう。


彼の女の絵の肌の白さは、『乳白色』と言われているが、日本製の筆を使い、外国人には、真似が出来なかったそうだ。
どうしても、白い肌の女が彼の代表作のように思えていたが、実際の絵を見ると、どれもが、時を越えて、訴えているように思えた。

とにかく、絵が上手くて、細かい。

生活の中の物を自分で作り、帽子などもよく出来ていた。
子供の絵は、同じような顔をしていて、彼の夢をどこかに当てはめていたのだろうか?

駆け抜けた81年の生涯は、今、こうして日本で公開された。
才能は元より、絵を描き続ける執念や、凄み、緻密さを100枚もの絵の中に凝縮した藤田嗣治は、日本からも、フランスからも異端児扱いされたが、天才と呼ぶべき芸術家なのだと思う。
人は環境で性格も考え方も変わって行く事が、絵を通して理解出来た。


絵は額と一体になって、その価値が問われるが、どの絵もすばらしい額の囲まれている。額の製作者にも、頭が下がるものだ。

会場では、彼が作った映画が小さな画面で流れている。
この映画は、国辱的だと評価され、公開されなかったそうだ。



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by sea1900 | 2006-04-14 17:11 | color