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海の上のピアニスト

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力を入れすぎないblog  それなりに暮す毎日

スリランカの人

おとといの夜、右のコンタクトレンズを無くしてしまい、昨日、眼科に電話したら、既に廃業していたのだった。電話に出たのは、留守番の伯父さん。


車で1時間以上係る所にあったので、何年間かは、裏道になる山越えを良くしたのだった。当時の車は、エアコンの無いジムニーで、少し位,ぶつかっても傷が付きにくかったし、気に成らなかった。と言って、私の運転が下手と言う訳ではなくて、山道と言うのは、すごい道だったと言う説明でもあります。
山を何度も越えると、ダムが見えてきて、別世界が展開するのだから、一人ドライブは、楽しかったし、達成感が一杯でした。ただ、山道で大きなトラックとすれ違いも出来なくて、私がバックするしかない時には、きつかったのです。

市内の眼科の病院を、私は信用出来なかったので、最初は大学病院に通い、あんまり頼り無いと思えたので、最終的にはこの病院に係っていたのです。

市内の流行っていた眼科では、一人の医師と、看護婦だか事務員だか解らない、20代の女子が20人もいて、これが医師の趣味だったのですが、医師が忙しくて、見落としがあったのです。


院長先生は、かつてギネスブックにも載った事のある有名な先生で、外国の教授達にも呼ばれて、手術をしていたのです。その様子は、待合室の壁に大きな写真と共に、プリントが用意されており、何度も興味深く読みました。

当時、スリランカからの医学生や医師が何人も、研修していたのでした。

この病院では、角膜移植や高度な手術が多く、他の病院ではさじを投げられた患者が多かったのです。院長は、300年も続く医師の家庭で育ち、贅沢なんて知らない、赤ひげの様な医師で、外車も無ければ、ゴルフにも行かず、休みの日は、ひたすら家庭菜園に精を出すのです。

余りにも優秀な先生だったので、流出を防ぐ為に、市が先生の為に、大きな眼科専門の病院を建てたのでした。


だから、経営は二の次で、スタッフ達が困った事も良くあって、トラブルもあったのです。
当時、60代の後半でしたが、蝶ネクタイが似合い、ダンディで、話しづらいので、緊張しまくりです。スタッフもピリピリしていて、こういう先生には、医療の解るマネージャーが必要なのだと考えさせられました。


当時、角膜は国内では、手に入りにくくて、この病院では、スリランカから送られてくる角膜を使い、角膜移植をしていました。
どうして、スリランカから来るのかと言うと、スリランカでは、人が亡くなった後、魂だけが天に行き、体は置いて行くという考えが徹底しているので、眼に関しても、眼球を摘出する事に、抵抗を持たないので、病院としては角膜に困る事が無かったのです。

先生が、スリランカの病院にも良く、行っていて、あちらでも手術をしていたので、その影響もあったのでしょう。

先生はご高齢になり、自宅で、ゆっくりとくつろいでいるのでしょうが、アイバンクには、勿論登録済みだと思います。
医師自身、あまり自分の死後、献体や角膜提供をする人が少ないのは、可笑しいと思ってしまうのです。自分がお世話になった医学会に、置き土産をしてこそ、医師なのだと思うのです。


お世話になった世界に、少しでも自分の出来る事を還元したいと思う人が多ければ、精神的なリサイクルにも成って、人間である事を分かち合える気がするだろうと思うのですが。。。。





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by sea1900 | 2006-03-10 00:54 | 人間

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