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海の上のピアニスト

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『SAYURI』


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今日、私は『SAYURI』を見た。
さっき、まつさんや、L’Eclairさんの記事を開けてみたら、同じ『SAYURI』だった。

この話しは一人の芸者の物語で、その本が何年か前に出版されている。
のらりくらりした京都弁で、語られ始めるその物語は、彼女の幼少期
から始まっている。

今から60年以上前には、貧しい家庭の女の子が、お金の為に芸者や、
遊郭へと、売られていった。
『芸者』とは、芸をする女の事で、三味線、小唄、踊り、気の利いた会話と
どれをとっても、奥の深い難しい事を学び、更に美しさに磨きをかけて、
夜のお座敷へと向かうのだ.

お座敷が夜中に終わっても、朝からのお稽古は欠かせない物で、自分に
厳しさを持ち続けなければならない。

酌婦には、誰もがなれても芸者となると、一握りの女しかなれないのが、
現実だろう。
だから、やたらに体を売らないという信念もある。

前に書いた『おもちゃ』も、祇園の芸者に成る話だったが、『SAYURI』も、
時代が違っても、芸者になる一人の女の物語だ。

前半の40分を占める幼少期の姿は、大後寿々花が、選択肢のない自分の
運命を、必死に生きる懸命さで、埋め尽くされている。

屋根を伝わり、逃げ出そうとする姿には、祇園と言う多くの屋根に女の世界を
見出す事が出来る。
大後寿々花は、他の女優を尻目に、伸び伸びとした演技で、千代を演じていて
千代がチャンツィイーに変わった時には、一瞬がっかりしてしまった程、大きい
存在感があった。

会長(渡辺謙)に偶然に出会い、優しくされた思い出が千代(さゆりの本名)の
心に小さな炎をともす。そして、それは千代の生きがいに成る。


この時から千代は、女の人生を迎えている。
一人の男を思い続ける事は、時に勇敢な事であり、女を強くする。

その思いがさゆりを一流の芸者に仕上げたのだった。

チャン・ツィイー(さゆり)は、色気のない綺麗さを持つ女優で、
コン・リー(初桃)とは、対照的に描かれている。

女だけの偏狭的な世界にあって、生き抜くのは大変なはず。

桃井かおり(置屋のおかあさん)と、ミシェル・ヨー(豆葉)のライバル意識も
描かれていて、面白い。

女の敵が女という事は、現在にも通じる事で、同姓を見る眼は厳しい。

ミシェル・ヨーの凄まじい色気を見ると、さゆりが小さく、子供っぽく見えたてしまう。

半玉になったさゆりの着物の袂が一段、縫われていて、見習い中という
暗号になっている。これは、祇園で聞いた物で、一年目の下っ端の半玉は、口紅も
下唇だけしか付けられないそうだ。


芸者は妻の半分の価値なのかもしれない。
しかし、その密度は、同じだと思うし、水草のように浮遊出来る生き物だろう。

芸者は肌襦袢は着ないで、直接長じゅばんを着て、着物を重ねて、どんなに寒く
ても、2枚の着物しか着ないと教わった事がある。
考えてみると、それが粋であり、一つのシンボルなのだと思う。


アーサー・ゴールデンは『さゆり』の作者であり、主人公さゆり、及び彼女を
めぐる物語は全くの創作だが、1930年から40年における芸者の日常生活に
ついては、史実を踏まえたつもりであると語っている。

原作では、会長とさゆりは、アメリカに何度も行き、さゆりはアメリカを終生の地
としている。

女性の為の恋愛物語でもあり、理想論の様な流れでもある。

細かく見ると、突っ込み所も多いかもしれないが、所詮それは、外国人から見た
芸者の世界という事で、本物の芸者の世界よりも、艶やかに描かれていても
構わないのだと思う。

リアリティを追求した物ではなくて、一つのファンタジーの追求で恋愛物語で
或る事を考慮すれば、チャ・ンツィイーや、コン・リー、ミシェル・ヨーが日本人
の芸者の良さを、上手く伝えているのだと思う。


祇園の芸者の話を、外国人に取られてしまったとしても、この話のイメージは
伝わるし、チャン・ツィイーの痩せた長身の体型でも、それなりに着物が
似合っているし、歩き方もよく出来ていた。

髪型も、当時としては可笑しいし、それが監督の好みからの物なのだろうと
思うと、
ハリウッドのロブ・マーシャル監督から観た、祇園の芸者の物語なのだった。



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by sea1900 | 2005-12-12 17:53 | 映画