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海の上のピアニスト

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「春の雪」から、ナルシスト

「春の雪」の感想は書いたけれど、やはり書き足らない部分もある。
昨夜、<johnの日記>に書いてある「春の雪」を読んで、私は在る映画を
思い出していた。(この映画については、後ほど・・・・)

まず、清顕はどうして、気になる聡子の縁談に反対しなかったのだろうか?
それは、彼の自虐性ゆえの プライドから来る物ではないだろうか。

最初から聡子を好きな事を言っていれば、問題はなかったはず。
そうならば、この話しもなくなってしまうけれど<笑>

清顕は、知らぬ、存ぜぬ!と決めてて係り、手紙を燃やした。
なぜ、この時にマーラーが流れるのか?
ここで、私はサスペンスの洋画に流れたマーラーの5番が、
思い出されてならない。タイトルが思い出せないのだ。
それで、もしかしたら清顕の心に住む冷徹な物とこの曲の重みが一致する
のではなかったのだろうか?

清顕は、父親に対する嫌悪感を表現せずにいるが、婚約した聡子を愛する
事で、父親に対する反発を表しているし、自分のプライドをかろうじて保っている。

そう思うと、聡子だけが純粋な気持で、清顕を好きでいるのだと思う。
純粋な恋愛から、妊娠、中絶の道を歩み、おそらくは産めなかった子供への
罪悪感から出家する決意をした。
大体、中絶後の精神状態では、ホルモンのバランスも異常だし、正しい判断
は出来ないと思う。

男の作家が描いた女は、現実的な女の強さが描かれない物で、
あくまでも、男の持つ女のイメージの夢心地のままだ。
女の作家の描いた女は、夢だけに留まらない逞しさを持っているし、
<霞を食べては生きられない。>現実感の集合体だ。


この話しの中では、蓼科の存在も、聡子の存在も、男から見たら
実に都合がよく出来ている。

聡子は、全編を通して、きれいな人形のような存在で、あくまでも
この映画の主役は清顕なのではないかと思ったし、
「大地震が来ればいいのに!」の発言からも、何て幼稚なんだろうと
思われて、がっかりさせてくれる。これでは、小学生のガキの如く、
可愛いだけ。

要するに、軽い恋愛映画に、重いマーラーの5番を流して、重厚さを
かろうじて見せようとしたけれど、か細い骨組みだから音楽が上手く
載らなかった感じで、手先のテクニックだけ使っても、物語の本質までは
届かなかったのだと思う。


ストーリーや音楽、それぞれの心情・などが、奥深い綾にならずに、平面的に
置かれていて、上手くブレンドされずに、そこから香りがでないコーヒーのようだった。
(アラッ!失礼。今、美味しくないコーヒー飲んでいるもので・・・・・・・・)

大正時代という重さ、三島由紀夫原作という重さがうまく現代と融合できずに
いるもどかしさを感じてしまった。
だから、私は、「世界の中心で愛を叫ぶ」の大正時代版くらいに捉えているし、
「セカチュー」を観て感動した年代には、丁度いいラブロマンスなのだろう。

私には、物足りない過去のラブロマンスと映った。







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by sea1900 | 2005-11-01 15:53 | 人間