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海の上のピアニスト

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「メゾン・ド・ヒミコ」とトークショー

昨晩は、澁谷で「メゾン・ド・ヒミコ」と、その後の犬堂監督と、ヒミコ役の
田中ミン氏によるトークショーを見た。
映画は2度目なので、ストーリーは解っていたので、少しは落ち着いて
見る事が出来た。そして、新しい発見も多かった。

まず、沙織が「メゾン・ド・ヒミコ」のドアを開けた時は、父親がどんな人
なのかを、<見たい>という気持が、怖い物見たさのように、沙織の気
持には在ったのだと思う。
この辺は、肉親同士の、眼に見えない情かもしれない。
例え、妻子を捨てて去った父でも、沙織は<会いたい気持ち>から、
そのチャンスを心のどこかで待ち望んでいただろう。
アルバイト代が加わると成れば、これは、大義名分にもなり、自分が
父に<会いたい>という本心がお金の影に隠れるので、絶好のチャンスに
なった。

春彦への愛は、会社の細川に対する愛と似ていて、彼らに心密かに憧れ
てはいても春彦は父の恋人であり、細川は離婚後、社内の女子と肉体
関係を続けて、イージーな愛を繰返す男なので、沙織から見ると同じ
レベルだった。手に届く所にいるようで、手が届かないむなしい存在だと思う。
勿論、両者共に、気に成る存在ではあるし、どちらもカッコいいので、女性なら
惹かれるだろう。

沙織のセリフが、余りにも、いつでもぶっきら棒で、淡々としていて、
それがかえって沙織の24歳の心を伝えていたようでもある。
24歳というのは、大人になってはいても大人になりきれていない、
そんな時だ。言いたい事を、さらりと言えるタイプでもないけれど、
感じる事は出来る、そんな沙織にとって、メゾンでの生活は、新鮮でもある。

絶望だけしかなければ、それを現実として捉えるしかないけれど、ここでの
生活には楽しさもあり、南フランス風の家の中に、沙織の衣装は保護色の
ごとく、合っていた。と言うよりも、沙織自身が合って行く。

沙織は、自分と母は父に捨てられて、その事で父を憎んで生きてきたと
思っていたのに、実は母は、父が去った後に、突然父の店を訪ねてきて、
それも最高のおしゃれをして、この時間を楽しんでいた事を知り、深い
疎外感を受けたと思う。父を許したと言うよりも、父を理解出来た母に対して、
羨ましさと、嫉妬の気持が襲い、沙織を孤独に引きずり落としていった。
母と娘と言う関係の、難しい一面でもあり、同性同士の絆の強さが裏返し
された瞬間でもある。沙織が母を許せなかったのは、自分よりも父を大切に
思い、父に理解を示せた母の女性としての大人の部分を、まだ、自分の中で
消化できないもどかしさでもあったと思う。

ダンスシーンは、ダンスをしてその後、温かくなった体が、心と共に融和出来る
人間の普通の流れから、沙織と春彦のキスシーンへと移行している。
あくまでも、自然な流れとしてのキスシーンだった。

キスシーンからベッドシーンに成るけれど、春彦のぎこちなさから、やはり、
彼は女を愛せないという現実を確認して、少し、母と父の事を思ったのでは
ないだろうか?
この経験からも、沙織は父を<認める>事を知ったのだろう。

細川を受け入れた時に、沙織は本当ならば、春彦を望んでいたのに、
現実には、そうはいかなかった事に、涙したのだろうが、この部分を母の
思いと重複して考えて、そういう運命にいる自分を思い、繰返される運命と
思った後の、あきらめの涙だったとも言える。

沙織tと春彦のバス停までのシーンで、沙織が泣き出すのは、
自分の運命を、やはり母の絶望からあきらめへの心に重ねたのでは
ないだろうか?

そして、ラストシーンでは、それまでの春彦への思いや、父への思い、
母への理解が、ひと夏の出来事と共に、吹っ切れて昇華出来た事を
現していた。
だから、私には爽やかさが残り、、御前崎の風を感じるような心地良さに
ふれる事が出来たと思う。
この話は、ゲイを通して沙織が大人になる過程を描いている。
そして何よりも、一枚の写真だけしか登場する事のない、亡き母の存在が
一番大きい。

姿無き母の、何も言わない声が、沙織に届くまでの話だと感じた。

そして、それはお盆の夜に歌われた、「母が教え給いし歌」の歌詞、

母が私にこの歌を
教えてくれた 昔の日、
母は涙を浮かべていた

今は私がこの歌を
子供に教えるときとなり
教える私の目から涙があふれ落ちる。

この歌が、全てを語っていた。



トークショー 前日に、私は劇場に時間がどれ位なのかを、電話した。
それは、15分から20分位で、それ以上になる場合もあると言っていた。


衣装は北村道子さんで、監督は任せっぱなしだったと言う。
そういえば、全てが、女性が思うような物で、構成されている。
春彦が白いドレスシャツから、半田と寝た後に着ていたブルーのシャツと
同色系のパンツは、きっと、海のロケーションにあわせたのではないだろうか?
この時の沙織はベージュのブラウスなので、春彦を沙織の服の色と
同系にする事は、春彦を目立たせなくしてしまう。
いつもは、白っぽいシャツなのに、こtれは北村さんから見ても、
沙織と春彦の心に、インパクトを与えるスパイス的な意味合いの
ブルーという色を持ってきたのではないだろうか?

最初、私はBLUEの意味である、ゆううつと言う意味にブルーのシャツを
ダブらせたのだが、女性の感覚から見ると、当っていない。
いくら、ゲロまずでもね!
もっと、感覚的な物だ。



犬堂監督
9月に見た「いぬのえいが」にも登場していたが、穏やかそうな雰囲気だった。
決め付けた演技を要求せずに、田中ミンさんには自由を与え、成り行きから
話の流れを形作っていった。と語る。
 ミンさんを日本アカデミー賞の授賞式で見かけ、その座っている姿勢から
「ヒミコ役は、この人しかいない!」と感じたと言う。
トークショーでは、スラッとして長身に見える体を、自然な雰囲気の服でまとって
犬堂さんのカジュアルな雰囲気とは、全く異なり、ぺらぺらと話す事がなくて、
言葉を一つ、一つ選んで、丁寧に答えていた。
正に、「渋い!」そしてカッコ良い。

ミンさんの演じたヒミコは、嵐の後の表情で、人間として生きた限界を
感じる。潔さがみなぎっていた。

ミンさんは言う。
あそこまで何歩出歩いたらいいのかを訪ねると、監督は「歩いてみて!」
と言うだけで、実行から、作りあげていったそうだ。


オダギリジョーには、演技をしないようにと言ったそうで、だから、春彦は、
アンニュイな感じにも、取れるのだろうか?

監督が、自分で決め付けたら、この作品はもっとつまらない物になって
いただろうと思う。
自由があってこそ、俳優も伸び伸びと出来る部分を持つだろうし、作品に
爽やかさを吹き込む事が出来たのではないだろうか?


この話を聞いて、私は昔好きだった、コム・デ・ギャルソンのデザイナー・
川久保れいさんを思い浮かべた。
一般的には、デザイナーがデザインした服をパタンナーがパターン(製図)
を作りだす。ところが、川久保さんは、例えば、「丸い物!」と実に抽象的な事だけを
言って、後は、パタンナーに任せ、彼らに創造させて作り上げていく。
こうして、彼女の作品は海外でも絶賛されて、舞台衣装にも用いられる。
それ程、可能性のある服が出来上がっていくという事だと思うのだが、
平面が立体に変わる瞬間は、犬堂監督のこの作品に掛ける物と、
同じだと思った。
毛細血管が、自分の意思だけではなくて、自分勝手にドンドン、伸びていくような
成長を誰も止めることが出来ないような広がりを感じる。

自由を与える事で、生まれる物は多い。
考え方や、思いなどもそうだ。
それ以上に、作品を見て感じられる雰囲気が、自由という名の風のように
心地よく、われわれに吹いて来る。

この風を感じて、きっと、沙織は大人になれたのだろうし、流れに乗る事から、
ルビイは、息子の元に帰ったのだろう。
完全にリアルに描いたならば、爽やかさは無くなっていたと思う。

全体的に見ても、テンポが良くて、流れがスムーズだ。

そして、皆が沙織の心の成長を喜んでいる、
全てを含んだ笑みでもあると思った。

犬堂監督にとって、この作品は、「壮大なる賭け」だったと思う。
私にとっては、その賭けは、当りと出た。


会場から出たときに、誰かが「母が教え給いし歌」を歌っていた。
とても美味い。
それは、この作品から、深い一つの喜びを感じる事の出来た人だと
思うことに、疑う余地はないのだった。








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by sea1900 | 2005-10-20 01:35 | 映画